失敗した―。
獄寺隼人は舌打ちをしたい気分だった。往来する人間の好奇の視線が鬱陶しかった。
土砂降りの雨の中を傘もささずに走っていればそんな目で見られるのも分かっている。加えて女の名前を叫んでいればなおさらだった。
「、!」
くそ、どこ行ったんだよ。もうかれこれ1時間はこうしているのではないか。頭のてっぺんからつま先まで、文字通り余すことなく獄寺はずぶ濡れだった。
不愉快だ。気に入っていたアルマーニのネクタイは水気を含んで伸びている。それはもう今の自分の気分と同じように。
獄寺がこうして好奇の目に晒されなければならないのも、息を切らして走っているのも、雨が降ることを知っていたのに傘を忘れてしまったのも、
下着までぐしゃぐしゃに濡れしてしまったのも、全て一人の女のためだった。、その一人のために。
が飛び出していったのは些細なことが原因だった。その些細なことを大喧嘩に発展させたのは紛れもなく自分である。
たばこ、吸いすぎじゃない?
始まりの一言はこれだ。たった、それだけ。
今まで自分が喫煙することに関して何も言わなかったが、初めてそう言った。
なんでも、昨日、だか一昨日ぐらいに喫煙が及ぼす害についてそれは恐ろしく教えてくれる番組があったらしく。
心配性の彼女はテレビの受け売りでそろそろ禁煙したら、せめて本数減らすぐらいは、と訴えていたのだった。
べつにそれで喧嘩になるなんて思ってなかったのだが、喫煙が体に良くないことだって、それがどんな悪影響を与えるかだってきちんと理解はしているつもりで、
それでも簡単にはやめられないんだという風な事を言う自分にあまりにもしつこいものだから、悪い癖がでてしまった。
―うっせーんだよ、お前、別に俺が何しようと関係ねぇだろ!
元々自分が気の長いほうではないということは知っている。
ただ、あの時はなぜか無性にいらいらして、言わなくていいことまでも怒鳴り散らしてしまったのだった。それはもう、盛大に。
最近料理が手抜きなんじゃないか、だいだいその服似合ってねぇんだよ、そんなことを言った覚えがある。
実際に獄寺は、の料理が手抜きなんて思ってないし、家事の出来ない自分は何も手伝ってやれないのだから、たとえ疲れていて多少手を抜こうとも、
文句をつけるつもりなど毛頭ない、服装だってちょっと地味なんじゃねぇか、もっと明るい色が似合うのに、―本当のところはそう思っていたのである。
それが勢いに任せていらないことを口走ってしまった。ジ・エンド。
しまったと思ったときはすでに遅し、は部屋を飛び出していた。
(隼人のばか!!―もう知らない、大っ嫌い!)
ものすごい剣幕で言われた一言が、耳にこびりついている。
獄寺はまとわりつく髪をうっとおしげに掻き上げると軽く頭を振った。重く含まれていた水が散っていく。一緒に、もうだめなのかと考える弱気な考えが飛んでいけばいい。
それから獄寺はの行きそうなところを全て探しまわった。モンブランがおいしい、テラスからの風が気持ちいいと言っていたカフェも、
そのテラスでなんでも聞いてくれるのだという友達の家だって、あらゆる場所を駆け巡った。
いない、いない、居ない。どこにもは居なかった。それでも諦めて帰れない。帰ったって空っぽな部屋が待っているだけ、余計にみじめだ。
なら好奇の目線だって甘んじて受けてやる。どこに居るんだよ、―
獄寺がようやくを見つけ出したのはそれから3時間たったころだった。もういっそのこと捜索願いでも出してしまおうか、それぐらい考え出していたときに思いだした場所には居た。
最初のデートで連れてきた、街が一望できる自分の最も気に入っている場所だった。
「。」
ぴくりとの肩がわずかに動いた。
もう泣いてはいないし、怒っている様子もなかった。けれど、こちらを向いてはくれない。
いつもは緩いウェーブを描く髪が重たそうに垂れて乱れ、先へと水滴が伝っている。その水滴にわずかに橙の光が滲んでいた。
雨は気付けばもう上がっていて、にび色の空から夕陽が差している。
きっと大丈夫だ、俺たちは。訳もなくそう感じた。
空から降る光の梯子が幸せに導いているような、不思議と満たされる気分だった。
これから先だって何度でもぶつかり合うだろう。その度にはどこかへ消え去ってしまうだろう。逃げてしまうだろう。
けれどそれが何だとういうのだ。何度だって俺が見つけ出せばいい。それだけのこと。
「帰ろう、風邪ひくぞ」
なるべく丁寧に、自分に出来うる限りの優しい声で問いかけると、はゆっくりと立ち上がった。
冷え切った手を引いて歩きだす。
この手をつかんでいればいい。離れたら、もう一度強く握り直すだけだ。
なぁ、。
こうやって何度でも二人で歩きだそう。
また明日がやってくる